わが街「さんだ」の紹介

こちらでは、ウソつきが小学生のときから住んでいる街「さんだ」について紹介します。
ちなみに、漢字で書くと「三田」となります。一般的に「みた」と読んでしまう方が多いようですが、「さんだ」と読みます。お間違えのないように・・・。
それでは、はじめに数字を紐解きながら 「さんだ」の紹介をいたしましょう。


ウソつきが三田に引っ越したのは昭和51年(1976年)3月のことでした。ちょうど小学校に入学する直前のことです。このころの三田は、現在以上に車がないと生活できないようなところでした。
まず、国鉄は、汽車が(電車でないところに注意!(苦笑))1時間に1本もないほどの本数、私鉄は1時間に2本あるとはいえ、住まいからその私鉄の最寄り駅まで行くには汽車使わなければならないようなところでした。
このころの主要公共交通機関は、神姫バスでした。とはいっても、最寄のバス停の本数はやはり1時間に1本程度。1時間に4本程度と(比較的)本数のあるバス停は、住まいから歩いて15分程度の国道のほうに行かなければなりませんでした。
そして、買い物をする場所にも困ってしまいます。
住まいは三田の中心地から約6キロと遠く離れており、食料品こそ歩いて12分ほどのところにある農協のスーパーが使えるのですが、衣料品ともなるとそうも行きません。やはり三田の中心地まで出ないといけません。しかし、交通機関は前述のとおり不便、自転車にしても街まで30分程度かかるようなところです。
というわけで、引越ししてすぐに、父親が車を買いました。車ならば10分ほどで市街地まで行けたので、重宝しました。
そのとき行っていたスーパーは、地場スーパーのSと、市場併設のAのみというさびしいものでしたが、当時はそれに慣れきっていました。
そんな状態が、大手スーパーのNが三田に進出する昭和54年(1979年)まで続いたのです。

道路事情も大変なものでした。
今では三田市内はきれいに舗装されている県道黒石三田線。当時は、三田市街から途中の貴志交差点まではガタガタ道だったのです!それから2キロほどはそれなりにきれいに舗装されていましたが、西野上から下井沢にかけても(地元の方には「嫁ヶ渕」といえば通じるでしょうか)劣悪な道でした。もちろん、そんなところに歩道などあるはずもなく、自転車などで通りかかったときはひやひやしていたものです。
国道のほうは覚えていませんが・・・。県道よりはいくらかましだったと思います。
もちろん、通称三田幹線などニュータウンを通る道など影も形もありませんでしたから、おのずとそれらの道を使わざるを得ませんでした。

国鉄の汽車のほうはまだ悲惨でした。
当時の福知山線は2種類の汽車が走っていました。客車と気動車です。
気動車のほうはまだましでしょう。強いて言えば、冬になったら開ける時に手で開けなければならない「半自動ドア」になることくらいでしょうか。
問題は客車のほうです。
今のような自動ドアではない上に、なんと、走っている最中ですら手でドアを開けることが出来たのです!しかも開放しておくことも・・・!高速で走っているときにデッキに出たとき、両側とも扉が開けっ放しになっているときは本当に怖い思いをしたものです。これは大きな問題にならなければいいなと思っていたら・・・。昭和58年(1983年)だったか59年(1984年)だったか、知り合い(当時小学生)が山中の武田尾・生瀬間でデッキから転落、足指を切断するという大事故がおきました。この事故がおきたからなのかどうかは分かりませんが、一時期自動ドアつきの客車も走っていましたが、すぐに姿を消しました・・・。
そんな大問題の客車でしたが、一番うれしかったのは駅に着くときにまだ止まらない客車から自由に飛び降りることが出来たこと。もちろん失敗したら派手に転んでしまうわけですが、あれはあれでスリルがあって楽しかったです・・・。 また、今となっては笑うしかないことがひとつ。
ウソつきの実家の最寄り駅には3番ホームまであるのですが、陸橋がありませんでした。では、どのようにして改札からもう一本のホームに行ったのか?
それは、改札から入るとまん前に線路面に降りる階段があり、そこを通って向こう側のホームに行っていたのです!そして、汽車が入ってきたときはその階段に鉄板の「蓋」をしていたのです!
そしてもちろん、汽車が入っている間は改札から向かい側のホームにその通路を伝っていくことが出来ません。そんなときは、線路面に降りた後ホームとは反対側の扉をよじ登って乗り込んでいたのです!(お年寄りには絶対無理な乗り方です)こんなときは、いつでも手で開けられる汽車はありがたかったです。ちなみに、自動ドアを装備していた気動車の場合は、列車を迂回するように一旦駅の端まで行って、線路面に降りた後、反対側のホームに上がっていました。
もっとも、これも昭和60年前後に陸橋が出来た後はそのようなことをする人もいなくなったのです。
これは、昔ならではのほのぼのとしたエピソードですね。

しかし、そんなほのぼのとした田舎の光景も、ニュータウン造成と時を同じくして変貌を遂げざるを得なくなったのです。
しばらくは大手スーパーが1店舗だけだったのが、フラワータウン造成で同じく大手スーパーのDが進出、ウッディタウンが出来るとともに鉄道系中堅スーパーのHが開店し、前述のスーパーNがMと名前を変えたあとにはHと目と鼻の先のところに第二の店舗をオープンさせたのです。
道路事情や鉄道事情も変わりました。
前述のガタガタ道だった県道も、貴志近辺がきれいに舗装されたあと、嫁が渕や三田市街側も次々に整備されていきました。
また、ニュータウンの中も道路が張り巡らされて、三田市南西部の道路事情は格段に向上しました。
鉄道のほうも、前述の昭和61年(1986年)の電化で一部を除いてすべての便が電車化されました。電化、複線化、一部区間の高速軌道化などにより、当時1時間を越えていた大阪・三田間の所要時間は、今では最速35分で結ばれるようになりました。
その一方で、バスのほうは衰退の道を歩み始めました。
神戸市街と丹波地方を結ぶ中距離バスは、三田市以北がJRと競合していたこともあり徐々にその本数を減らし、その代わりに都市型の短距離運行バスがぐんぐんとその本数を伸ばしてきたのです。



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